はたらく緑内障に負けないぞ!

緑内障と闘う日々を記録

緑内障になるまでの経緯

視力は、小学校までは2.0でガンガン見えていたのですが、中学校になってからはかなり近視が進み、たまに眼鏡をかけるようになった。

 

高校では、時々かける眼鏡から常時、ハードコンタクトレンズを装着するようになり、35歳くらいまで、その生活が続いた。

 

どんどん近視が進み、最終的には0.02まで落ちてしまったため、裸眼では生活が出来ない状態だった。

 

アメリカに移住して、7年後に帰国する直前に、アメリカ人の薦めでレーシックを受けた。

 

視力は、0.02→1.2まで回復。

 

術後の、あのクリアさに驚いたのは、忘れもしない。。。

 

その後、日本で生活をするようになり、徐々に日本でもレーシック手術を受ける人達が増え、私の会社ではある意味、ブームになっていた。

 

ただ、レーシックは受けたものの、グレアにより、夜になると光が滲んで見えるようになったが、それほど気にせず、コンタクトレンズがない生活を楽しんでいた。

 

毎年の健康診断の結果では、視力低下が指摘され、視力が1をきってしまったが、それでも裸眼で生活する分には全く支障はなかった。

 

40歳を過ぎてから、「目の病気」について考えるようになり、念のため、眼圧と眼底検査をセットで受診するようになった。

 

最初の数年間は、眼底検査でも問題なし。眼圧値は、若干、毎年、数値の上昇が見られたが、正常眼圧範囲内の数値だったため、特に健康診断では問題視されず、A判定。

 

そして、突然の今年2月下旬の判定がD2。

 

「軽度の緑内障の疑いがあるため、眼科医の診察が要。」というコメントの記載があった。

 つまり、わずか1年ちょいの間に、視神経乳頭陥凹が拡大したという事になる。

 

インターネットでは、健常者も同じように陥凹しているが、視神経が痛んで死んでくると、この陥凹の広さが大きくなり、60%になると、いわゆる「視神経乳頭陥凹拡大疑いあり」という診断がつくようだ。

 

後の流れは、すでにブログに記載しているとおり。

 

元気なおばあちゃんで生涯を終えたかったのだが、少しだけその老後生活が不安になった。

 

歳には勝てないが、何かしらの病気になった人は、少なからず、「なぜ私が?僕が?」という気持ちがあるだろう。

 

病気と向き合う時に考える事は、自分の人生の一部だと受け入れる事が大事だという事。

 

どんなに嘆いても、どんなに不安になっても、「腫瘍を取って、はい終わり。」というような病気とは、緑内障は違う。

 

現代医学では、不治の病。。。

 

でも、進行をコントールできる病気でもあるが、中には、どんなに眼圧を下げても視野欠損が進行してしまう患者もいる。

 

私の場合は、まだ初期のため、今後の経過を見てみないと現時点では何も言えない。

 

ただ、私が出来る事は、定期的に主治医の診察を受けて、点眼する事。

 

すでに実行している食事のコントールや運動を継続する事。

 

視神経保護のために、それに効くと言われている製薬会社からのサプリメントを継続して飲むこと。

 

そして、あまり眼圧の変動には一喜一憂しない事。

 

これくらいしか、私には出来ない。。。

 

人間の体の仕組みは、とても神秘なものだが、時に、それ故、悲しくなることもある。